2012年03月27日

田舎幼少期回想散文.2





集落一の豪農であるタテオさの家には豚小屋があった。



集落の中では大抵、お互いの呼称に屋号または土地名をつける。
マルヤの姉さん、カッキュウの兄さん、といった具合。
[姉さん兄さん]といっても該当するのは孫がいる年代の人たちである。
それ以下の年代の人はその部分に名前が挿入されることが多い。
私の場合は、オウラのまりちゃ。
名前につく[さん][ちゃん]の[ん]が発音されないのは、未だ謎。


そんな中にあって、タテオさに屋号などの冠がつくことがなかったのは、
それだけ一目置かれた存在だったのではないかと今は解釈している。
のちに彼はみんなに推され、市議会議員を三期ほど務めている。



タテオさの豚小屋には、私が祖父におぶられている頃からよく散歩の途中に立ち寄っていた。
板張りの縦長の小屋で、入り口の扉は西部劇のバーの扉みたいな板がプラプラしているだけだった。
子供の目線からは十分に中が覗き見れたし、今思えば1匹くらい簡単に盗まれそうな造りだ。
八十匹くらいいただろうか。通路を挟んで左右にピンク色の豚さんがたくさんひしめいていた。


祖父と一緒に立ち寄るときは、祖父とタテオさはもちろんよく知った仲なので、
祖父が「おう」と言うとタテオさはいつも満面の笑顔を返してくれ、
それはもう、好きに見てっていいじ、ということになっていた。

二人が「今年のばれいしょはどうだいね」なんて話をしている間、私はたくさんの豚さんを眺めていた。
その集団の鳴き声とうごめく様子は、それはもう迫力があって、ビビリの私は扉の下からちょっと覗くだけで十分スリルのようなものを味わえていた。
気を利かされて抱っこされて近づかされた日には、もう全力で泣いていた。

ただなんというか気になる存在で、小学校に上がってからもひとりでよく見に行っていた。
小学校から帰る時間にタテオさがその辺りにいることはあまりなかったので、豚小屋から振り返り山の端に張り付くタテオさの家目掛けて、
ぶたさん、みせてくださーいっ
と叫んでみる。
しばらくの静寂があって、それが聞こえたらしいときはピョコっとタテオさがどこかの窓からあの笑顔で応えてくれる。
でもそのピョコがなくても勝手に見ていた訳だから、許しを請うていたと言うより子供なりの建前みたいなものだった。お咎めがあったことはない。


この豚小屋は言うなれば集落のアトラクションのようなもので、
溶け込んだ風景として、自然に受け入れられていたと記憶している。


それが七、八年前、地元に帰ったとき、
臭いや鳴き声に苦情が出始め十キロほど離れた反対側の山に小屋を移したという話を聞いて驚いた。


時間の経過は溶けた風景をも乖離するということなのかと虚しさのようなものを覚え、
同時に、ここに戻ってくることを望んでいない自分にはっとした。



そんな十数年後の変化なども想像できるはずもなく、
ランドセルを置くなり私は、
ぶたさん、みにいってくるーっ
と、また転びそうになりながら、坂を飛ぶように、下っていく。









posted by アキラm at 02:34| Comment(0) | 回想散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

田舎幼少期回想散文.1





1980年代。
長野県北西部、北アルプスの麓。
面積が大きいってだけで市になった片田舎。

山の中腹、標高720メートルの地の小さな集落。
その九割は苗字が同一。
区別をするため、屋号で呼び合う。
屋号の表記は漢字ではなく記号である。
その記号はそれぞれの家の蔵に描かれてもいる。

私の産まれた家は[カネジョウ]という屋号であり、
それは[¬]の下に[上]と書き表す。

ただウチは例外的に屋号ではなく土地の名前である[大裏(おおうら)]の方で呼ばれていた。
それはおそらく集落の一番奥に位置していたからだと思われる。


集落の中にある家のお墓は集落の中にある。
文字通り、産まれてから死ぬまで、死んでも、黙っていればこの中にいることになる。

集落の中にあると言ってもさすがに真ん中にではなく、端の、山の中に建てる。
ウチは立地的に山を背負っていたので、
家の周囲半分以上はお墓に囲まれていた。
これが普通だったので、もちろん怖いなどとは思っていなかった。



記憶にある集落の多くの家は、茅葺屋根、もしくは茅葺の上にトタンを張った屋根で、
玄関の扉をガラガラを開けると、まず大きな土間が広がっている。

土間を囲む木製の[あがりはな]は、大人が腰掛けるのにちょうどよい段差であり、
バリアフリーには程遠い。

あがりはなの先にあるのは一面の引き戸であり、
一枚二枚や一部屋二部屋の区別なく、敷居の溝の上を自由にガラガラと動く。
農家の家というのは無駄に広く、この引き戸によって[部屋]としていたように思う。

引き戸を開ければ掘り炬燵はデフォルトだ。
掘り炬燵に使う豆炭を備蓄する小屋は大抵勝手口から出た辺りにある。
豆炭の横には薪が積まれていることが多い。


ウチも例外なくこんな家で、
堀り炬燵の思い出といえば、一週間に一回くらいライターが落ちて起こる小爆発。
ポンっという乾いた音に、あっと思って炬燵の布団をめくると、
豆炭を覆う灰が巻き上がって、もくもくと、目の前が白くなる。

薪は主にゴミを燃やすために使っていた。
よっぽどの不燃ゴミ以外、ゴミ収集に出す習慣などなかった。

もちろん水洗トイレもない。
畑の肥溜めは大切な肥料だ。



水は豊富だった。
山の湧き水が絶えず、集落に張り巡らされている石で作られた溝を流れる。
集落の一番高い所にあるウチの裏にはその水の流れを変える基点が存在した。
とは言え、それはただ1つの大きな石である。
その石の位置や向きを変えることで、各家に流れる水量が左右される。

お菜洗いたいもんで悪ぃね、って
他の家に流れる水量が一時的に減ることを断りに歩いたりする。
あのねえさんはまたなんもゆわねぇでオラとこの水止めただじ、って
よからぬ火種にもなりがちだった。


狭い、狭い世界。





そうは言っても昭和が終わろうとしていたこの時代、
なにも現代が遠かった訳ではない。知らなかった訳でもない。

坂を下りて10分も歩けば駅があったし、
駅前から伸びる商店街はそれなりに栄えていた。
商店街の先には三階建てのジャスコも割りと早い段階でできていて、
確かに歩けば遠いが車ならやはり10分程度の場所だ。

ただ、集落の衆はそれを[マチ]と呼び、
誠、キョリがあった。









posted by アキラm at 01:40| Comment(0) | 回想散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田舎幼少期回想散文.0





お酒の入った私がときどき話す昔話を、
[書き留めといたほうがいいよ]
って言われて、調子に乗ってその気になっている。




こどもだってちゃんと考えてるって、
こどもは何も分かってないなんて思っちゃダメだって、
絶対覚えておこう。


って、幼いころよく思っていたのを鮮明に覚えている。

大人になると忘れちゃうんだなって周りの大人を見て思ってたんだと思うが、
残念ながらそれを[絶対覚えておこう]って思ったことは覚えていても、
具体的に何を考えていたのかは、ちょっと思い出せなくなっている。


ということは、だ。
今それとなく覚えている幼いころの光景も、いつ消えるとも限らない。



なんか、ちょうど今にいいかもな。
なんて思ったりしている。
何回書く気になるか分からないけど。



記憶の中の光景の散文化。
これまでに増して駄文となるかしら。
さてさて。









posted by アキラm at 01:29| Comment(0) | 回想散文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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